昭和54年07月17日 朝の御理解



 御理解 第36節
 「日本国中のあらゆる神を、皆信心すると言うが、それは余りの信心じゃ。人に物を頼むにも一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば相談にくれて物事捗らず。大工を雇うても棟梁が無ければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、直ぐおかげが受けられる。」

 なかなか一心にもいろいろあります。一心になると直ぐにおかげが受けられるとあります。だから直ぐにおかげが受けられるという程の一心とは、どういう一心だろうかという事を、追求しなければならんと思う。いいや私は金光様一心です、というておりましても、直ぐにおかげが受けられんとするなら、まだ自分の一心に神様が認めて下さる一心ではないという事を悟らなければならない。
 昨日は日田の井出さんのところのお父さんの十年の式年、それに月は違いますけれども、お母さん他に三、四名の霊様の慰霊祭と、まぁあ奉仕さはて頂きました。そして一家でお里の伊藤さんの方も井出さんの方も合楽、合楽と傾倒してみえておられます。ところが、お父さんの御兄弟というか、御親戚の方達は皆んな仏教である それで一番長老である親戚の方が、そのよもや合楽の金光様でするという事は、知らないものですから、仏教でしてくれとか、いろいろ問題があったんですけれども。
 伊藤さん井出さんとしては、どうでも合楽でおかげ頂きたい。だからまぁ私共親子だけでも合楽でお祭りして頂いて、そして御直会はどこか料亭なら料亭でと、まぁいろいろその、そこまでに至までに問題がございましたんです。それがそれこそ、まぁ一心の願いです。どうでも合楽でおかげを頂きたい。只、二、三日前でしたか、もうそれこそ不思議な不思議なおかげを受けて、皆さんが合楽の教会で、そのう霊のお祭りをする事を賛成して下さり。
 そしてならお祭りをして頂いたその後の、御直会も合楽教会で出来たらという事に話がまとまりまして、大変賑やかなそれこそ親戚中の方が、15名でしたか16名でしたか見えられまして、信心のない方達ですけれども、やっぱり律儀な方達というのは違うなぁと思うたんですけども、一番の長老の方が丁度80と仰っておりましたが、もう実に何というですかね、あの実意丁寧自分達の甥か姪かと言うぐらいの。
 私達でももう実にそのう普通でいうなら、こうもう親戚でも一番上は長老と言う様な人達は、こう若い人達に呼び捨て的なというかね、まぁぞんざいなものの言い方をするけれども、もうそれが実に丁寧なんですよ。
 はあ、こういう律儀なものを持っておられるから、新たにまあ、金光教という事は知りませんし、合楽がどういうところか分かられませんから、やっぱりいろいろ問題があったんだろうと思わせて頂いたんですけれども。ならこういうその実意なものを持っておられるから、新たにそのまぁ金光教ちゅう事を知られまして、本当にしられまして合楽がどういうところか分られませんから。まぁいろいろ問題があっただろうという風に、今思わせて頂いたんですけれども。 
 ならいよいよここでお祭りを頂かれて、そして御理解を頂かれて、何か本当に、ここでして頂いて本当によかったじゃなくて、本当に有り難かったというて、御挨拶がございましたんですが。これなんかはやはり一心というものが、そういう働きにまでなってきたわけですね。だから親戚の方ががたがた言うならば、言うけんでまぁなら巻かれてと言う様な事では、やっぱり一心ではないのです。
 如何に熱心にお参りして来ているようであっても、それは一心が立っとらん証拠。いうならば信念というか、確信というものがです、いや神様を信ずれば信ずるほどです、この神様より他に助かりようはないと、この世だけではない現世あの世をかけてこの神様に助けてもらわねば、又この神様の世界に住まわせて頂かねば、というものが出来たら私はそれが出来ると思うですね。だからあのういうなら、改式をしてとられない方の場合は、まぁだ本当は一心は出来とらんというていいわけです。
 いやそれ程にまだ金光様を信じていない、また合楽で十全の教とか、いよいよ絶対とか間違いないとかというお話は聞いておりましても、まぁだまぁだそこまでの一心に至ってない。だからそこんところをお取次を頂いて、そうあるべく願われるようになった時が、まぁ一心だろうとこう思います。
 出来る出来ん、早い遅いは別としてですね。私自身がこの世で助けて貰う、あの世でもやっぱり、金光大神の世界に住みたい。でなければ本当の助かりは有り得ないんだと、私は分かった時がその一心は出る時だと思うですね。ご利益を受けるから、おかげを頂くから、今合楽にこうやってお参りしているけれども、という程度の事では、私は一心じゃないと思う。
 いやそりゃ一生懸命拝みよる、一生懸命合楽に通いよると、まぁ一心のようだけれども、直ぐにおかげが頂けないというところにですね、私はまだその一心というのは、いろいろまぁ掘り下げてみなけりゃならない。まぁだいろいろとすぐにおかげの受けられるという、一心はまだございましょうけれども、まぁ大ざっぱに言うてね、私は合楽一心一本という事の印がですね、お参りをしとりますと、言うだけではなくてね、生死を通してあなたにすがるより他に手はない、と言う所まで信じれる信心。
 神様は信じる者を信じると仰るから、成程おかげが受けられるという事が分かる。昨日、一昨日にも申しましたようにね、「楽しき心配」私共一生、心配というのは尽きる事はなかろうけれども、その楽しみが楽しくなってくる、いやその心配が楽しゅうなってくる。それは何故から言うと、神様を信じておるからなんです。その心配しておるのは自分の信不足ですから心配があるけれどもね.
 神様をだんだん分かって来る」、信じて来るとこれを神様が神愛というて下さるし、それを修行と受けて行けというて下さるから、これを修行で受けて行ったらその向こうに神愛がいよいよ形の上に現れた時のおかげというものを思うただけでも楽しゅうなっくる。これは神様を信ずるから心配、難儀と言う事でも楽しゅうなって来る。だからいうならば、今持っている難儀が楽しいものに感じられる様な、修行として受けられる時に、私はまずあなた方の一心というものが、神様に通う時だと言う風に思うんです。
 熱心いわゆる信ずるということにおいてですね、神様を信ずると言う事において、そこに一心がだんだん立ってくるという風に思うんです。家を建てるでも、棟梁と言うたらやっぱり一人だと言われるように、船頭さんがが二人居たんじゃ船がぐるぐる回りする。船頭さんは一人と決めておかなきゃならん。そこまでに至るまでに私はいよいよまぁ、合楽で言われるね、もうそれこそ金光教の独自性。
 その独自性を合楽的に説かせて頂くと、もう十全の教えという事になり、宗教以前の宗教という事になり、それこそ前代未聞と思われる程度のものを、合楽の信心によって感じられる様になったら。私は改式せずにおれないと、いう事になるのじゃあないでしょうか。まあだそこの手前もあるけん、親戚のあれもあるから、まぁ長年お寺さんにお世話になっとるけんで、と言った様な間はまぁだ一心じゃない。と言う事になります。
 と言うけんなら改式すればもうそれで一心かというと、そのそうでもないのです。そりゃなぁにも訳も分からんなりに、ほんなら金光様でお願いしょうというて、改式してあるところも何軒もあるです。本当に合楽の信心を信、不信という事ではなくてね。だから今日私が申します、そういう神様を信じて疑わない、しかもこの神様に生死を通して御縋りするより他に手はないという程のものが、預けての改式ですよね。
 私は昨日、霊祭りを奉仕させて頂いてから感じた事ですけれども、まぁその事を聞いて頂いたんですが、あの合楽新幹線あのうあれよりも、もっとごつい大きな感じのあの汽車が、ホ-ムにピタッと入ってくるところを御心眼に頂いたんです。そしたら向こうの方から一団体の人達が乗り遅れちゃならんと、もう小走りで汽車に乗り込もうとしているところを頂いた。私はもう直感した事でしたけれども、いうならばそれこそ、合楽行きのこれが機関車であろうとこう思うた。
 そしてそれに乗り込まれたのは、昨日の表立っての霊様は、四人、五人でしたけれども、いうならば井出家の、いわばおからやからの霊達であったろうかと思います。ある教会で改式をしておられて、そして現在はあのう合楽教会に参っておられるのですから、私はそこの親先生に、あのう後から井出さん達が夫婦で挨拶に見えた時に申しました事でした。とにかく改式のおかげを頂いておったという事で、そのあのう霊さんがおかげを受けておられるだという事実この事実です。
 これはね、この頃から申しますようにね、世の中にはね、もう難儀をもう当たり前、もう難儀に慣れてしもうておられる人が、もうほとんどだという事ですよ。だからなかなか合楽示現活動、素晴らしいお話を、体験を見せたり聞かせたりしても、やはり動かないという人が沢山あるわけ。本当に真の助かりを得たいという人達だったらです、合楽の話を聞いたら、いっぺんに、そういう神様がござるなら、そういう教会があるなら、というて導かれるはずです。
 ところが難儀に慣れてしまっておるもんですからね、助け船を出さして頂いても、それに乗ろうとしない。もうこの世の中はもうその難儀だ、苦労だという事は当たり前のように思っておる人達が多いように、霊様もやっぱり同んなじ事。生前心を開いてない霊様はもう行った先が、まぁそれが地獄であってもです。もうここが霊の来るところだと思うておるわけ、もうそれこそうじゃうじゃとしとるようなものね。
 ところがです心にいうならば真実の助かりを願って居る、求めておるという事はです、やっぱり生きた宗教、本当の宗教によらなければならない。その宗教によって助けたい助かりたいという、いうならば目を開かせて頂いておるという事だけでも、なら皆さんが例えば霊の世界にいかれてもです、やはり金光大神のお取次を頂いて、あの御霊の世界でもいよいよ助かろうという気になられたら、もうこの世で助かれなかっても霊の世界に入ったら助かる。金光教の合楽なら合楽に御縁頂いておれば。
 金光教の信心を頂いておれば、けれども助かりたいというその意欲があってもね、助けるその指導が出来なければ、又助かりようがないちゅう事です。如何に助かりたい助かりたいと言うておってもですね。なら○○教会で助からなかったけれども、合楽教会によって助かったという、そこにはいうなら助かりの手立てというものが、合楽にはあったからだと言う風に思わなければならんです。○○教会で改式はしたけれども、霊の助かる手立てというものがなかった。
 只、助かりたいという願いを皆んなが持っておるところに、いうならば合楽でまあわかりやすく、いうならば合楽理念は助かりの理念と言われる。合楽理念を持って霊達も又助かる手立てを求めて行く。私共はここで助かり難しかったけれども、それには私共には我情があり我欲があり、この肉体を持っておるから助かり難くかった。ところが霊の世界に入ったら肉体がない、痛いもなければ痒いもない。霊だけなら。
 ただ魂だけが助かりたい。ここでもそうですよ本当はいうたら、魂が助かればそれでいいという気で、いうならば魂の助かりを本気で願ったら、その魂にいうならば幸福の条件というものは足ろうてくるのものなんです。ところが魂の世界に入りますと、もう魂だけですからね。しかもそれが助かりたいという願いを持つのですから、なら合楽では合楽理念をマスタ-して合楽理念による助かりという事になったら、もうその急激にね、どんどん助かっていくという事実をね。
 私が神様にお知らせを頂いてそれ以来、ははぁこれは合楽に縁を頂いておるというだけでも大した事だなぁと。霊の世界に入ったらだから、霊だけが助かりたいとう願うのですから、助かりが早いという事が分かるでしょう。邪魔なものがない。けれども助かりたいという願いも意欲もない、もうそれこそ何か知らん田んぼでうようよしておるあのボ-フラのようにね、そういうふうにしておる。いうなら霊が実はほとんどだという事です。 助かろうというその目を開かせていないわけです。
 いうならこの世でもいうならば、この世は苦の世苦の世界だというふうに思いこんでおって、助けようというても、もうその難儀の中に慣れきってしまっておるようにです、霊の世界に入ってもそれが地獄であっても、例えばもうこれが霊の世界の様相だというふうに思いこんでしまっておる。だからなかなかあのう助かりにくいとがありますよ。そういう意味合いで。これは私が春秋の霊祭を仕える時に非常に感じるです。どんなに言うて聞かせてもいう事が分からないというのがおります。
 そういう意味でです、ならある教会で改式しておいて、金光大神の取次をもって助けるという、そこまで一線上に出ている霊様達がね、助かりたいけれども助かる手立てになく、いうならば手立てと言うものが教えられないところに、助かりたいけれども助かっていなかったという霊達がです、さぁ合楽行きの汽車が来たという事でそれこそ、遅れちゃならんというて乗り込まれる姿が、私は昨日井出さんのところの、だからこの十年祭ですから、十五年祭が楽しみというて話た事でした。
 合楽理念によって霊達が助かって、霊の位も進んでゆくだろう。喜びの霊安心の霊として、いよいよあの高度な霊としての働きが出来るようにもなるだろう。というふうにまぁ申しました事ですけれどもね。これは私共でもそうです。だからいよいよ信心を頂きたい、いわゆる信心とは信ずる心、いよいよ真心を頂きたい。真心(しんじん)いよいよ神心(かみこころ)金光教の究極の神人(かみひと)じゃと仰るです。
 私共の心が神の向かうてゆくのが信心、そこにはなら我情があっては進まれない信心我欲があっては、いうならばその一段一段有り難うなっていく、と言う様な事も出来ない信心、そういういうなら仕組みになっいる。ところがだんだんお話を頂いていっておると、五年たち十年たちしておる内に、どうしてあぁいう事にこだわっておっただろうかと、どうしてあんな事に執着しておったであろうかというふうにです、いうならば子供がね、ラムネ玉とかパッチン何んちゅうですか、ここへんでは打ちおこしというね。
 いうなら遊び道具をもうそれこそ宝物のように、こうやって大事にしておった子供がね、段々年をとっでいくと、そういうものじゃない、そういう物はいらんごとなってくる、そしていわばいろんな物を求める物を変って来る訳ね。そして多くはとにかく金だ物だと言う様な、又は名誉だと言った様な事に、血道を上げて終わる人がほとんどですね。そこまでは成長する、ところが信心が頂けて我情がなくなり、我欲がなくなったらです、金銭欲がなくなると強さがなくなる。
 名誉欲なるものがだんだん影を潜めてくる。 物の見方が変わってくる。どうしてあのような物に執着しておっであろうかと、いうならば振り返ってみて思うようになる。心が成長してくるからです。だから信心をさせて頂いておると、いつの間にか我情がはなれ、我欲がはなれ、そしていよいよいうならば、神様まかせ先生まかせと言った様な、もう実にそこには安心の出来る生活が開けてくる。
 そういう心の状態になったら、今度は要らんと言うても人の信用もついてくる。物は入ってくる。金も入ってくる。という極楽世界があり、その極楽世界の有り難い勿体もいという心でいよいよ合楽に向かう。合楽世界である、いわゆる神様が喜んで下さるような、御用の一つでもさせて貰わねばおられないと、いうように段々成長して行くわけです。だから、いっぺんになれるとは思われん。
 今日の御理解の一心と定めい。さぁ今日一心と定めて帰りなさいというても、出来るもんではないけれども、いよいよ金光教の信心が有り難いと分かり、合楽で説かれておる合楽理念の素晴らしさというものが、いわゆる実験実証によって、それを分からせて頂いた上にも分からせて頂いて、そしていよいよ合楽理念による助かり以外にゃない。これはこの世だけではない、あの世までも持って行けるのが、この合楽理念だと。という事が分かってきたら、いうならば改式せずにはおられない。
 そこまで至っていうなら改式となる様な時に、私は始めてあなたの一心が出た時だと言う風に思うです。そういうものが内容が足ろうて、そこからすぐにおかげが受けられるという世界があると思うです。いうならその程度を一心とういう程度を、ずうっとこう落として考えてみるとです、どこへ行っても助からなかった、病院でも、医者でも、薬でもどうにも出来なかった。何々様にも随分参ったみたけれども助からなかった。
 合楽にもうお縋りするより他にないという事で、ここに参ってくる。だからこれもやはり一心です、他のすべてをいうなら雑行を振り捨てて、合楽一本にお縋りする。これもやはり一心ですけれども、それはまぁいうなら本当の、すぐにおかげが受けられるという程の一心ではないという事です。拝ませて頂くでもね、いうなら御祈念中に物音が聞こえたり、振り向いたりせんならんような時には、まだ神様に一心が届いておらん時だというように教祖は仰っておられます。
 だから一心という事も、いろいろありましょうけれどもです、最後にある「すぐにおかげが受けられる」という一心。そこにはもうすぐにという事よりも間髪いれない、もう助かっている世界なんです。すぐにというのは、もう求めるものがない、求めるにしても、あぁあれが欲しいなぁと私がいうようにね、あぁこれは素晴らしい玉露のお茶を頂こうか、さぁこれに羊羹が一切れあるとなぁと、私が思うたとしましょうか。もう障子の向かうには誰かが羊羹を持って来とるです。これは間違いないです。
 けども最近のごとあれば、玉露があればちゃんと言わんでももうここに、卓上にその羊羹がちゃんと出とるというのが、今の合楽の姿です。あぁあ喉が渇いて仕方がないと、正義先生と文男先生と、四、五人でもう十年も前の話でしょうか、あの耳納山の途中で、あのうこう道が出来た時でしたが、あの時分からやっぱり糖尿病の始まりじゃったんでしょうね。もう上に行ったら喉が渇い渇いてしようがない。しかしこげな山の突っぺんで水があすうはずもないしというてから。
 そこに自動車止めてからしたら藪の中に、あのう冷蔵庫が押し倒しちゃぁった。分からんように、そこに茶店があったらしいです。それがそれでちょっとこう、文男先生か誰かじゃったでしょう、開けてみたら中にコカコ-ラが入っとった。あらぁここにコカコ-ラがありましたよというわけで、それでそこで頂いた。そこの上の松の木にお金をくくりつけてから、帰って来た事がございます。
 ここに水があろうはずがないところに、水が湧く程のおかげを頂かれるんです。そういう世界があるんですやはりね。だから一番最後のすぐおかげが受けられるというのは、そういう心を開いたところにだと思いますから、今日開けとういわけではないのですけれどもね。只、手前んところの、拝むにも一心、お参りするのは一心と言った様な一心から、そして助かって、いわゆる実験実証が出来て。
 いよいよもってあの世この世う通して、助かられるのは、合楽の信心による他にはないと、言う様な見極めがついて、なら改式のおかげをさせて頂く、誰が何というてもそれが出来るところまでの信心が進んだ時です、すぐにおかげが受けられる、一心とはそういう事だと思います。私は一心になっとるけれども、おかげが頂だけんというのは、まだいうなら程度の低いところの一心であって、すぐにおかげが受けられるという一心は、私は今日皆さんに聞いて頂いたような、内容のものであると言う風に思います。
    どうぞ。